春色の雲

上京一人暮らしの新卒OL、日々おもうことの記録。

何について書くか、について

 

 

今日は、何について書こう。

 

 

何かを書こう、と思って考え始めるとなかなか言葉が出てこない。学生時代に授業中の課題で出された作文のようだ。人から見られる前提で何かを書こうとすると、余計に言葉に慎重になる。内容を考える。悪いことではないが、こういった時少し窮屈に感じてしまう自分がいる。

 

 

私は以前にもブログを書こうと思ったことがあった。いや、厳密に言えば実際にブログを書き始めたのだ。ドメインも1年分購入した。今から約2年前くらいのことである。ただ、当時はどうしても文章の体裁や閲覧数、そういったものが気になってなかなか書き進めることができなかった。ようやく何時間もかけて書いたブログの記事は、結局人に見られることはなかった。そして、私は忙しさを理由にしてブログを書くのをやめた。

 

 

本当は自分が好きな自由な文章書きたかった。しかし今ネットに溢れている情報では、「ブログ」と検索をしようとすると、「ブログ 稼ぐ」「ブログ 副業」「ブログ 収益化」そういったものが検索の関連キーワードですぐに出てくる。

 

昔のブログはもっと自由な場所だったような気がする。ブログに限らずTwitterInstagramもだ。昔を懐かしんで今を否定する人間にはあまりなりたくないと思ってはいるが、やはりあの頃がどうしても懐かしい。各々が自由に呟きたいことを呟いて、なんでもない日常を共有して、それに否定や揚げ足取りもさほどなかったように思える時代。あの頃だったらブログももっと書きやすかっただろう。今ほどさほど有益な情報を得ることはなかったのかもしれないが、、、これは言い訳のように聞こえてしまうかもしれない。いや、きっとこれは私自身が受け入れたくない言い訳なのだ。

 

 

それでふと思ったことがある。自分が好きなもの(今の私で言えばものを書くこと)を仕事にすると言うことは、一定の犠牲を払わなければならないのかもしれない、と。

 

例えば私は幼い頃から音楽をやってきた。母からピアノを教わり、小学校中学校高校ではずっと吹奏楽部に所属し様々なコンクールに出場していた。

しかしそれは稼ぐ手前のこと。所詮どれだけ練習しても、あの時の私のレベルはまだ好きを仕事にする前の段階、たいした苦労も味わってない段階だったようにも思う。こんなことを言ったらあの頃の自分に相当怒られるかもしれないが、きっと、そうである。

 

ただこの例には一つ例外があある。コンクールのための練習をしているとき、私は音楽を嫌いになりかけたことが何度かあった。きっとそれは、音楽の練習が自らの選択肢ではない「義務」なっていたから、であったように思う。

 

仕事にしなければ、義務にしなければ、好きなものはきっと、ずっと好きなままでいられるだろう。

 

ただ、それでも好きを仕事にしている人たちがいる。それはおそらくずば抜けた才能を持っているのか、強い精神力や想いからなるものなのか。いずれにせよ、ただ好きというだけで働くことは難しい、他人には見えない世界、経験、想いが彼らにはきっとあるのだろう。私は、そのように思う。

 

 

とは言え諦めきれなかった夢である。自分を表現すること。こういった矛盾の中で今の私が精一杯に出した答えは、「考え抜く」ことである。

 

考えて、考えて、自分の経験や感じたことを出来る限りの力で言語化する。もちろん自分の言葉で。それならきっと一度ブログを辞めた時のように、余計なもの(といったら失礼かもしれないがあえてここでは語弊を恐れずにこの言葉を使う)に気をとらわれすぎずに、続けることができるかもしれない。ブログはインプットとアウトプットのいい練習になるように思う。だからこそ続けていきたい。

 

 

 

 

ただ、もし私が知らないうちにブログを辞めていたら笑ってやってください笑

 

 

…という、思ったことを書いているような、改めての決意表明のような、そんな記事になりました。

 

今日も読んでくださりありがとうございます。

 

ゆっくり休んでください、おやすみなさい。